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2025[Fri]
08.29

桑名の歴史:第3回 桑名宿を築いた名将、本多忠勝とその偉業

歴史桑名市

旅人たちが七里の渡しで桑名に上陸し、その活気あふれる街並みを目の当たりにしたとき、その繁栄がたった一人の武将の偉大な功績によって築かれたことを、どれだけの人が知っていたでしょうか。その人物こそ、徳川家康の天下人へと押し上げた立役者の一人、「生涯五十七戦無傷」、かすり傷1つ負わなかったと伝えられる天下無双の勇将、本多忠勝です。


▲本多忠勝イメージ像(生成AIにより作成)

関ヶ原の戦いの後、徳川の世が訪れると、忠勝は伊勢国桑名10万石の初代藩主を任じられます。これは、東海道の要衝であり、軍事・経済的に重要なこの地を、最も信頼できる家臣に託した家康の深い信頼の証でした。忠勝は、武将としての武功だけでなく、領主としての並外れた手腕を桑名で発揮することになります。

彼の最大の功績の一つは、「慶長の町割(けいちょうのまちわり)」と呼ばれる大規模な都市計画でした。彼は、桑名城の大改修を行うとともに、城下町の区画を碁盤の目のように整然と整備しました。町割とは、戦国時代から江戸時代にかけて、城下町や宿場町などを計画的に整備する都市計画の手法のことです。

  • 碁盤の目状の区画: 多くの城下町では、道路が碁盤の目のように整備されていました。これにより、町の区画が明確になり、行政管理もしやすくなりました。
  • 短冊状の敷地: 道路に面した間口が狭く、奥行きが長い「短冊状」の敷地が多かったのも特徴です。これは間口の広さに応じて税金が課せられたことに由来すると言われています。
  • 防御機能の重視: 城下町ならではの特徴として、敵の侵入を阻むための工夫が凝らされていました。道幅を急に狭くしたり、見通しを悪くする「丁字路」や直角に曲がる「鍵の手」といった構造を取り入れることで、町の防衛力を高めていたのです。

これにより、桑名宿は東海道の宿場としての機能を飛躍的に向上させました。また、忠勝は東海道の整備にも尽力し、旅人が安全かつ円滑に旅ができるよう、道のりを整えたのです。彼の街づくりは、その後260年以上にわたる桑名藩の繁栄の礎となりました。

また、忠勝は領民の信仰にも心を配りました。1571年(元亀2年)に織田信長の焼き討ちで焼失した多度大社の社殿を、多額の寄進によって再建しました。このことは、彼が単に武力に優れただけでなく、文化や信仰を重んじる人物であったことを物語っています。

現代の桑名に残る桑名城跡(現在は九華公園)には、その功績を称える本多忠勝の銅像が建っています。この像は、彼のトレードマークである鹿の角の脇立がついた兜と、天下三名槍の一つに数えられる愛槍「蜻蛉切」を携えた雄々しい姿をしています。多くの市民や観光客がこの像を訪れ、桑名藩の礎を築いた名君の偉業を偲んでいます。


本多忠勝の愛槍「蜻蛉切」は「天下三名槍」の一つに数えられます。せっかくですので、ここで残りの二本もご紹介しましょう。

  1. 蜻蛉切(とんぼきり): 言わずと知れた本多忠勝の愛槍。穂先に止まった蜻蛉が切れたという伝説が残るほどの切れ味を誇りました。
  2. 日本号(にほんごう): 福島正則から黒田家の家臣、母里太兵衛が飲み比べの末に手に入れたという逸話が有名な大身槍。福岡の民謡「黒田節」にも登場します。
  3. 御手杵(おてぎね): 室町時代の刀工、義助の作とされる大身槍で、結城秀康、松平大和守家に伝わりました。残念ながら第二次世界大戦で焼失してしまい、現存していません。

これらの槍は、単なる武器ではなく、それを操る武将の生き様や物語を象徴する存在だったのです。

桑名宿の繁栄は、七里の渡しの海上交通という自然の恩恵と、本多忠勝という一人の名将の先見の明ある街づくりという、二つの要素によって築かれたのです。

シニア向け住宅アドバイザー ライター:添田 浩司

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